それでもいっしょに生きていくために ― 犬の認知症と向き合うということ

「認知症が一番怖い。」 ある犬の飼い主の言葉だ。犬は普通に食べるし元気はあるのだが、意思の疎通ができなくて行動を制御できない。吠えることをやめさせられないし、グルグル回ることを止められない。理解の及ばない得体の知れない無機物のようになってしまった我が犬が、同じことを延々と繰り返し、その真意をわかってあげられない。つまり、何をしてもこの狂気をどうすることもできない、ということを言っているのだった。病気という病気はたくさんあるが、認知症が一番怖い、と。

意味があるのかないのかわからないような、振り絞るようにして投げつける全力の吠えは、人間の内側を執拗なまでに叩き続け、飼い主の心は壊れていく。その声が外に漏れようものなら、今度は近隣住民の心身を脅かすことにもなる。それがまた飼い主を苦しめる。このように、特に犬の認知症は社会問題なのである。飼い主の精神は消耗し、生活が破綻し、犬の命の期限を決めるところまで追い込まれることもある。

切実である。高齢者の介護、自身の病気、仕事の悩み、家族関係の不具合。どの家庭でも何かしらの課題を抱えていると思うのだが、そんな中で飼っている犬が認知症になる。こういった抜き差しならない状況に陥ったとき、飼い主は単にペットの飼育者というだけではなく、日々の暮らしを必死に営む生活者としての側面を炙り出されてしまう。

動物病院は飼い主のプライベートには干渉しないが、それでもペットの問題が重なって状況を複雑にしている場合には、そこに関わらせてもらって飼い主の負担を少しでも軽くすることはできるのではないかと思っている。傾聴し、知見を共有し、知恵を出し合って、薬の力を借りる。そんな些細な取り組みが、すべてではないにしても、飼い主を救うことにつながることを願いたい。